ゆるい教育ママの育児日記

中3と小4の娘をもつアラフィフのお母さんです。主に家庭学習の記録、日々思ったことを書いていきたいです。

半藤一利 日本のいちばん長い日読了

 

 

耐え難きを忍び、忍び難きを忍ぶ

 

終戦玉音放送の有名な一節です。

 

私は、歴史の転換期の小説を読むのが好きです。

貴族の世界から武士の世の中になった平家物語

南北朝時代太平記明治維新、そして太平洋戦争。

 

太平洋戦争に関しての小説を一番読んでいます。

たくさん読んでいるわりに、情報が膨大すぎて、まだまだ正確には把握していません(泣)

 

この本の主役は三人です。

昭和天皇、首相の鈴木貫太郎、そして、大日本帝国最後の陸軍大臣阿南惟幾

 

鈴木貫太郎氏は終戦を迎えるために指名された首相です。

昭和20年、太平洋海上における制空権をすべて連合軍にとられて、5月には沖縄もとられて、そこから全国的な本土空襲。

2.26事件よりすべて事後報告の陸軍の暴走が始まって、その陸軍はこんな絶望的な状況でも本土決戦にて、最後の一兵卒になるまで戦いぬく、とういうものでした。

そんな陸軍をおさえこむには、聖断を仰ぐしかない、と首相は思います。

聖断とは天皇の決断、です。

明治時代から天皇は現代神と崇められて、またそのように徹底した教育を叩き込まれてきました。

しかし、です。

天皇にはなんの権限もなかったのです。

軍人の心のよりどころみたいなものです。

 

その陛下も昨今の空襲警報がやむことがない現状に心を痛めていました。

首相から聖断をお願いされたときも、快く引き受けました。

軍人を説得する役もかおうと願いでたほどです。

 

陸軍の阿南大臣は部下とともに終戦に向けた弱腰にクーデターを企てます。

 

しかし、です。

 

8月14日早朝の御前会議で陛下による聖断がくだったら、阿南陸軍大臣はあっさり終戦を受け入れます。

大臣が辞任したら、この終戦に向けた内閣は総辞職しなければならず、終戦にむけた働きはまた白紙に戻ります。

また部下にも辞任を要求されます。

しかし阿南大臣は一蹴します。

陛下の聖断は侵してはならないもの。

陛下が戦争を終わらせるといったら終わる。

たとえ本意に沿わないものであっても。。。。。

その阿南大臣が終戦において最も気にかけていたことが国体護持、です。

天皇制の維持ですね。

阿南陸相は、御前会議の前に昭和天皇から国体護持の確信はある、とじかにお聞きになったとき、終戦をはじめて受け入れます。

もちろん連合軍からそんな確約をもらったわけではありません。

昭和天皇は自分の命がどうなってでもいいから、無辜な国民が空襲によってこれ以上犠牲になることを、誰よりもとめたかった。

またそんな昭和天皇をなににかえても守ろうとした阿南陸相に心うたれます。

 

さて、8月14日が舞台になります。

早朝の御前会議の聖断によってポツダム宣言を受諾することが決まります。

そこから、国民への詔書玉音放送にすること。

詔書の内容による和平派の米内海相東郷外務大臣とあくまで軍人の立場を守ろうとする阿南陸相の対立。

また聖断はあくまで君側の奸計によるものであるからと、天皇を拉致して玉盤を奪おうとした一部青年将校の宮城立てこもり事件。

そして、そんな陸軍の暴走をとめるために、玉音放送前8月15日未明に自決した阿南陸相。。。。

 

阿南陸相は武官時代に天皇からいただいた肌着をまとって、数人の部下に見守られながら自決しました。

腹切りをして一時間も意識があったとか。

介錯しようとした部下を叱咤したようです。

敗戦を陛下に強いることを、死んであがなおうとした。

 

大君の深き恵に浴みし身は

言い遺すこと片言もなし

 

大君とは昭和天皇のこと。

阿南陸相の最期の辞世の歌です。

現代では考えられない天皇陛下への忠誠心です。

 

もちろん下々のことなど意に解さない帝国軍人の横暴さには憤りを感じます。

神風があるという、なんの根拠もない精神論だけでのりきろうとしたお粗末な大本営の方針に、家族を亡くした一般市民には許せたものではありません。

 

そんな国民のことを常に考えて、心を痛めていたのが天皇陛下だったのです。

 

じゃあどうしてもっと早くにとめられなかったと思う方もいるでしょう。

 

サイパンをとられて、完全に太平洋の制空権を失った時点で、降伏すべきでした。

サイパンから沖縄へ、沖縄から本土への空襲はあきらかでした。

沖縄は捨てられたんだという人もいます。

空母と戦闘機で勝敗が決する第二次世界対戦では、制空権を失うことは即敗北につながります。

どんな裏をかいた作戦も、空から爆弾を投下されて、焼き野原になってしまったら意味ないことなのです。

 

足利尊氏に破れた後醍醐天皇から、皇室は完全に歴史の表舞台から退きました。

しかし、それでもひっそりつつましく皇室の行事を続けてきました。

江戸時代、黒船がきて開国を要求されて、そこからまた皇室にスポットライトがあたるようになりました。

それでも当時の孝明天皇は、幕府あっての皇室だとういう姿勢をつらぬき通そうとしました。

そのかたくなさに孝明天皇は維新の者の手で暗殺されてしまったようです。

 

皇室は常に一歩退いて国民を見守る、そうした立場でありました。

だからこそ武士の時代になっても途絶えることがなかったと思います。

 

そうして生きてきた昭和天皇に、自分の口から敗戦をきりだすことができたでしょうか。

私には思えません。

 

戦後の極東裁判でA級戦犯になった被告人たちは、阿南惟幾大臣と同じように昭和天皇に戦争責任をおわせないよう必死でした。

なのに、です。

マッカーサー元帥に初めて会った昭和天皇は、

「自分の命とひきかえに、A級戦犯の者たちを釈放してほしい」

という発言に大変感動して、ソ連や中国の反対をおしきって、天皇に戦争責任をおわせないことを決めたようです。

まあ、占領国になったとき統治しやすいように、という思惑もあったようですが。

 

東日本大震災のとき、慰問にこられた平成天皇美智子様のお姿には、国民をおもいやる慈愛あふれるもので特に印象に残っています。

阿南惟幾陸軍大臣や、A級戦犯になった方たちが、どんなことをしても守りたかった皇室が、あんなひどい負け方をした太平洋戦争なのにまだ残っていることに感動します。

 

もうじき終戦の日がきます。

 

またもう一度読みたいです。