頼朝は東国(関東地方)で続々と打倒平家の輪をひろげていきます。
駆けつけるのが遅かった者には、たとえ郎党が大勢いる大物であっても、すぐには認めません。
そうした媚びない態度が、頼朝に威厳を与えていきます。
まだ34歳なのに、周りがひれ伏していきます。
現代ではありえませんね。
政治家で30代は若手です。
また源氏の英雄である八幡義家のゆかりの地である鎌倉に政所を開きます。
そして、富士川で初めて、平家の軍と相対します。
平家側は伊豆の伊東祐親と相模の大庭景親に鎌倉軍の後方から襲って、富士川から挟撃する予定でしたが、鎌倉軍のほうが一足先に行動して、その二将はすでに捕虜の身でありました。
平家は何もかも行動が遅かったのです。
京都が拠点で地理的なものもありましたが、どんなに分の悪い情報を耳にしても、もう20年も平和な時代が続いていました。
中々現状を受け入れられなかったのではないでしょうか。
また、その前の石切山の決戦で圧勝していたのもあります。
二将が捕虜になったとわかると、すぐに平家側は総崩れして京都に帰っていきます。
これが公家武者といわれた脆弱さですね。
また富士川の決戦で初めて、離れ離れになっていた頼朝と義経が出会います。
頼朝が決起したと知って、奥州に隠れていた義経がやってくるのです。
母親が違うのですが、この瞬間は頼朝も、自分を慕ってやってきた義経にあたたかな肉親の情があったはずです。
しかし、義経に対して不審が芽生える出来事があります。
頼朝の乳母である比企の尼は、頼朝が伊豆に幽閉されていた20年間織物を贈り続けます。
頼朝は大変感謝していて、頼朝の元にすぐにやってきた比企の尼の息子義員をしかるべき要職につけようと思いますが、尼曰く義員は体調がすぐれないといって言葉を濁しました。
それが義経と一緒に義員がやってきたのです。
頼朝は不快な気持ちを隠せませんでした。
義経は弁慶のお母さんをいたわったり、仲間を助けるために単身平家の屋敷にのりこんでいったり、3歳で別れた常盤御前の母親を恋しがったり、奔放な面がありながらも人間味のある一面もあり、またそういう箇所がカリスマ性となって御曹司といわれ、心から服従を誓うとりまきが、鞍馬の山から放浪して奥州に隠れるまでの間に何人もいました。
これが頼朝はおもしろくなかったんですね。
兄弟同士で徐々に不協和音がうまれます。
どうして頼朝は義経を信じてあげなかったのでしょうか。
義経は頼朝を兄と慕い尽くします。
鎌倉幕府までつくったのに、すぐに血が途絶えて、北条家が鎌倉時代の覇者となるのです。
頼朝は多感な時期に、父義朝が清盛に敗れて東国に逃げるときに、部下に売られて殺されたのが大きな傷となって、人を信じられなくなりました。
しかし、自分を慕ってやってきた弟を、御家人の一人として扱う怜悧さ。
またそれなにのに義経が無心に兄を敬うのが切ないですね。
その不協和音のある兄弟仲をさらにひっかきまわすのが、後白河法皇です。
清盛は源氏よりも後白河法皇を最期まで恐れていました。
次の巻は、ついに平清盛の死です。
源平合戦の幕を切った頼政ですら、清盛を裏切るのは心が痛かったようです。
武士というより実業家で家族思いの清盛が亡くなるは悲しいですね。。。